世界的な情報アーキテクトが考えてることを知る本
今日「情報アーキテクト(IA)についての本」を紹介してほしいといわれてあげた本:
「多少難しくてもいい」ということだったので、この二冊。
定番は「シロクマ本」ですけど、これは「IAになる本」みたいな印象なので:
もっといい本あれば教えて下さい。
憎しみを生む思想対立の解決策は、そもそも互いの存在への関心をなくすこと
『暇と退屈の倫理学』や『フード左翼とフード右翼』の議論も連想しつつ。
本気で本腰の理想論を振りかざして「丁寧」というポジティブキーワードの元であるべき自分だけどそうでない自分を見比べて「あー 丁寧に生きてないなー」などとカジュアルな反省を強いるシステムが私たちの社会生活を抑圧的なものにしているんだ。 – 「丁寧な暮らし」とかしてる奴は滅亡しろよ: やまもといちろうBLOG(ブログ)
「抑圧」を具体的に言えば、例えば「ワーキングプアなシングルマザー、子供にキャラ弁を作ってあげる余裕もない」といった人を「ダメな母親」という自罰へと追い込んでいくような抑圧性。
一方で、「丁寧な暮らしをしたい」と思ったり言ったりすること自体を批判しても仕方ない。上記引用のような告発(二項対立構図の暴露)って、あんまり意味ないんです。政治的対立争点を作っただけで、事を荒立ててるだけで、そこから生産的で平和的な解決策があるのかっていうと、ない。実際「滅亡しろ」なんていう物言いが、ヘイト・スピーチそのもの。
対立構図を暴露して、対立を煽って、平和から戦争に近づいただけ。
あらためて考えると、二項対立構図の暴露とは、要するに「丁寧」という言葉を使うとき、人は常に「丁寧ではない」という対立項も呼びこんでしまうという問題です。ではどういう言葉ならいいのか。そんな言葉はないと思う。
だから、「棲み分ける」しかないんじゃないかなあと思うんですよね。ある意味では差別的な「ゲーテッド・コミュニティ」的な方向性です。でも「棲み分け」こそが平和な道だと思いますけどね。だって、思想的対立が現にあるんだから、互いに近寄っても戦争になるだけじゃん。
この社会はつながりすぎているのであって、いかに「嫌なやつと関わらず」「嫌なやつを無視して」生きていけるかを考えるのが大事だと思う。憎しみを生む思想対立の解決策は、そもそも互いの存在への関心をなくすこと。アーキテクトとして、そういう社会のほうがいいと思ってます。
もちろん、リアルな空間では、無視しようとしても無視できないことってありますよ、それは。領土問題とかは、物質空間における政治対立。現実に被害が発生するんだから、それは「政治的」な問題として「政治的」に解決していかざるをえない。
でも、情報空間では、互いの存在を知る必要もない。「棲み分け」ができる。フィルター技術・パーソナライゼーション技術を使えばいい。
イーライ・パリサーの『閉じこもるインターネット――グーグル・パーソナライズ・民主主義』(原題:ザ・フィルター・バブル) は、そういう「心地いいフィルターの泡」に包まれて人々が島宇宙化していくことを批判している。言いたいことはわかるんだけど、いま現実に起こっているのは「つながりすぎ」でギスギスしてるということでもある。人々がウェットな田舎を捨てて、ドライな都会に移住してきた歴史もあるわけだし、適度な「無関心」は人類の要請だと思うんですよね。
現代って、たぶん人類史上かつてないほど「互いに無関心でも行きていける社会」が実現されている。なので、「ウェブで人々はもっとつながるべきだ」みたいな議論には賛成できないんですよね。
(余談ですが、これに並ぶとしたら有史以前の部族化以前の狩猟採集生活のフェーズ、つまり旧石器時代あたりでしょうね。人々は大家族単位では行動していたけど、基本的にはバラバラに自給自足していたフェーズでは、血族以外の人間に無関心でも人類は生きていけたと思います)
ぼくは「どうすれば必要以上につながりすぎずに、それでいて社会を持続可能にすることができるだろうか」という問いを持っています。アーキテクトとして。
そこでは「リアルな空間(ぼくは「物質空間と呼ぶ)における政治的対立」と「情報空間における棲み分け」をどうアレンジしていくかという問題を考えていくことになります。
つまりこういう思考です。例えば日中関係。「中国の反日教育に目くじら立ててる日本人」という政治的対立がありますけど、これは情報空間の話です。いまは互いに関心を持ちすぎている、というのがぼくの現状認識。棲み分けていけばいいんです。「相手がこっちをどう思ってるか」なんて気にしたらキリがないので、互いに無関心になれば平和です。
一方で、尖閣諸島などの領土問題は、物質空間における政治的対立。これは「棲み分け」が難しい。現に稀少な資源の競合が発生しているわけですから。どちらかが譲るか、強奪するか、あるいは曖昧なままにするか、といったくらいしか選択肢がない。つまり従来的な「政治」の文法で取り扱われる問題です。
こんな具合に「物質空間の政治的対立」は残るけれど、それはそれとして、それと密接な「情報空間の政治的対立」については棲み分けで戦争性を減らせないかなと、そんなことを考えています。
- 「物質空間」と「情報空間」では政治的対立のあり方が異なる。
- 情報空間では棲み分けしやすい。お互いに無関心のまま生きやすい。
- 「つながりすぎ」の社会で、どう「棲み分け」による平和を実現していくかが課題。
という話でした。
see also: 情報空間と物質空間の違いが重要なのであって「インフォメーション・アーキテクト」などという物質空間のアナロジーによる自己規定はいずれ捨て去られなければならない - zerobase書き散らす
メールをDropbox上のファイルとして保存できるSend to Dropbox
Send to Dropbox | Email + Dropbox
便利。ぼくの用途は、メルマガを転送して、Dropbox経由で別のアプリで読んだり。
デフォルトでは、下記のオプションにチェックが入っていない。
- Include HTML email body (if available)
- Include plain text email body (if available)
- Automatically unzip archives
これらをチェックしたほうが便利だと思います。
セキュリティ
機密情報の取り扱いには注意が必要です。Send to Dropbox宛に送信したメールの内容は丸裸ですから。重要な機密を、暗号化もせずにSend to Dropboxに送るのはリスキーです。Send to Dropboxが信用できるなら、構いませんけどね。
なお、Send to Dropboxの利用に際しては、Dropbox/Apps/Attachmentsフォルダへのアクセスを許可する必要があります。言い換えると、それ以外のフォルダにはアクセスされません。Send to Dropboxを信用できなくても、Dropbox上の既存データを盗まれる心配はありません。
コードを見るだけで推定できるエンジニアの実務能力なんてごく一部では
「コードを見ればエンジニアのレベルがわかる」といいますけど、ぼくには分からないんです。
だって、ある程度の能力があるエンジニアなら、時間さえかければ、いくらでもリファクタリングで素晴らしいコードにしていけるのではないでしょうか。
つまり、コードを見ても生産性までは分からない。そして、生産性こそ重要だと考えます。だって、「生産性」は「実務能力」とほぼ同じ意味ですし。
そういうわけで、「コードを見ればエンジニアのレベルがわかる」とは思えないんです。
端的に言えば、「そのコードを何時間で書いたのか」という情報もなければ、生産性を測れないはずなのですよ。
ちなみに言うと、僕自身が「遅いけど綺麗なコードを書く」ほうなので、趣味的なプログラミングならいいんですけど、職業プログラマーとしての生産性は低いと思うんですよね。だからぼくのOSSワークのコードを見て雇っても失敗すると思うわけですよ。「綺麗なコードを書くプログラマー」と思われても、ぼくはそのコードを書くのにすごい時間を投入しちゃってますから。
思想対立を超えたコラボレーションを可能にするのは「寛容さ」と「予断を捨てること」
僕の考えでは、各分野のアーキテクト達の連携こそ大事です。互いに「全体性」を目指す同志なのだから、コラボレーションできるでしょうと。
―― アーキテクトが全体性を指向するのは性(さが)であり、対象が複雑化するなかでは専門性を異にするアーキテクトたちの協業が重要になってくる
コラボレーションできないとしたら、人間観や社会観が違う場合などが考えられます。
例えばぼくの人間観・社会観・アーキテクト観は、
- 個々人のそれぞれ異なる主観的経験(狭い意味では「ユーザー・エクスペリエンス」)を尊重します。その意味において「経験主義」的であり、言い換えると「リベラル」「相対主義的」でもあります。
- 社会において、様々な主体による自由な競争を重んじます。その意味において「リバタリアン」「進化論者」的であります。
- そのような(ルーマン的な意味での)「社会システム」を可能にする(レッシグ的な意味での)「制度設計」(アーキテクチャ)に関心があるアーキテクトです。
と言えます。
ですので、ぼくがコラボレーションできそうにないのは「権威主義的」「絶対主義的」「物質主義的」「父権主義的(パターナリスティック)」「官僚主義的」「裁量行政的」「保守主義的」なアーキテクトということになりそうです。
ただし、イデオロギー対立は避けたいですね。原則論としては前述のような傾向性がありますが、べつに「互いの存在・人間性を、丸ごと認め合う」必要なんてないわけです。互いの利害が一致するところでコラボレーションが成立すればいい。
「この問題については利害が一致する」という文章のなかで「この問題について」という言葉の意味を考えてみましょう。それを「共通の目的」と呼ぶことにします。「利害の一致」する「共通の目的」を、なるべく狭く設定することが、コラボレーションの可能性を高めます。「共通の目的」において思想対立がなければコラボレーションできます。共通の目的の外で思想対立があってもいいのです。
例えば「あいつは気に入らないけど、この共通の目的では利害が一致している。だからコラボレーションできる」ということ。そういう「思想対立への寛容さ」が大事だと思っています。「あいつにもあいつなりの考えがあるんだろうな」という想像力が、それを可能にします。そのためには、まず「予断」を捨てなければなりません。
「予断」や「偏見」のことを、英語で "prejudice" といいます。この単語を分解すれば pre (前もって) + judice (判断を下す → judgement)となります。
我々は、「いま判断 (judge) すべき眼前の問題」について、ついつい「過去の情報」も読み込んで判断してしまいます。もちろんそれは必要なことですが、しかし予断 (prejudice) を引き込む危うさもあります。
予断を捨て、相手の考えを尊重し、コラボレーションの可能性を模索すること。それが複雑な社会問題に取り組むアーキテクトに必要なことではないかと思っています。
アーキテクトが全体性を指向するのは性(さが)であり、対象が複雑化するなかでは専門性を異にするアーキテクトたちのコラボレーションが重要になってくる
「アーキテクト」って「全体性」を目指してタコツボ的な「専門化」に抗うのが性(さが)だと思います。「責任」ではなく。「責任」は外在的なんですけど、そうじゃない。アーキテクチャが「全体性」を目指すのは、内発的な衝動ではないかと。だから「性」(さが)と呼びたい。
アーキテクトは全体性を指向します。でも、一人で「全体」を担うことはできません。ぼくは情報アーキテクトですけど、建築のアーキテクチャのことはよくわかりません。逆もまた然り。一人で全部できる人なんていません。ですから「専門化」せざるを得ません。アーキテクトは、なんらかの専門分野においてアーキテクトにならざるを得ません。
アーキテクトは全体性を指向するが、しかし一人で全体を担うことはできない、というジレンマ。
では、どうすればいいのでしょうか。僕の考えでは、各分野のアーキテクト達の連携こそ大事です。互いに「全体性」を目指す同志なのだから、コラボレーションできるでしょうと。
「日本人はハイコンテキストだから言葉で説明しなくても云々」の誤り
「日本人はハイコンテキストだから、言葉で説明しなくても、互いに理解しあえる(だからロジカルシンキングが発達しない)」という議論に、ぼくは懐疑的です。日本人は互いに理解しあえていない。理解しあっているような幻想があるだけ。
それは日本人に限らない。人間は「互いに理解しあっている」という幻想を持っているだけ。「相互理解は結局のところ幻想にすぎない」という理解のうえに、それでもなんとか回る社会にしていくことが大事。
それに対して、日本人の問題は、「日本人はハイコンテキストだから、言葉で説明しなくても、互いに理解しあえるというメタ幻想を持っていること。それによって「相互理解できている」という幻想を強化していること。
「日本人は言語を尽くしたコミュニケーションをしなくても、理解し合える」は誤り。
「日本人は言語を通じた相互理解を早々に放棄し、曖昧な理解のままに物事を進める」というのがぼくの認識。
そもそも人間同士に「完璧な理解」などない。だとしても、日本人は相互理解の努力を早々に放棄しがち。それがぼくの認識。