石橋秀仁(zerobase)書き散らす

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思想対立を超えたコラボレーションを可能にするのは「寛容さ」と「予断を捨てること」

僕の考えでは、各分野のアーキテクト達の連携こそ大事です。互いに「全体性」を目指す同志なのだから、コラボレーションできるでしょうと。

―― アーキテクトが全体性を指向するのは性(さが)であり、対象が複雑化するなかでは専門性を異にするアーキテクトたちの協業が重要になってくる

コラボレーションできないとしたら、人間観や社会観が違う場合などが考えられます。

例えばぼくの人間観・社会観・アーキテクト観は、

  • 個々人のそれぞれ異なる主観的経験(狭い意味では「ユーザー・エクスペリエンス」)を尊重します。その意味において「経験主義」的であり、言い換えると「リベラル」「相対主義的」でもあります。
  • 社会において、様々な主体による自由な競争を重んじます。その意味において「リバタリアン」「進化論者」的であります。
  • そのような(ルーマン的な意味での)「社会システム」を可能にする(レッシグ的な意味での)「制度設計」(アーキテクチャ)に関心があるアーキテクトです。

と言えます。

ですので、ぼくがコラボレーションできそうにないのは「権威主義的」「絶対主義的」「物質主義的」「父権主義的(パターナリスティック)」「官僚主義的」「裁量行政的」「保守主義的」なアーキテクトということになりそうです。

ただし、イデオロギー対立は避けたいですね。原則論としては前述のような傾向性がありますが、べつに「互いの存在・人間性を、丸ごと認め合う」必要なんてないわけです。互いの利害が一致するところでコラボレーションが成立すればいい。

「この問題については利害が一致する」という文章のなかで「この問題について」という言葉の意味を考えてみましょう。それを「共通の目的」と呼ぶことにします。「利害の一致」する「共通の目的」を、なるべく狭く設定することが、コラボレーションの可能性を高めます。「共通の目的」において思想対立がなければコラボレーションできます。共通の目的の外で思想対立があってもいいのです。

例えば「あいつは気に入らないけど、この共通の目的では利害が一致している。だからコラボレーションできる」ということ。そういう「思想対立への寛容さ」が大事だと思っています。「あいつにもあいつなりの考えがあるんだろうな」という想像力が、それを可能にします。そのためには、まず「予断」を捨てなければなりません。

「予断」や「偏見」のことを、英語で "prejudice" といいます。この単語を分解すれば pre (前もって) + judice (判断を下す → judgement)となります。

我々は、「いま判断 (judge) すべき眼前の問題」について、ついつい「過去の情報」も読み込んで判断してしまいます。もちろんそれは必要なことですが、しかし予断 (prejudice) を引き込む危うさもあります。

予断を捨て、相手の考えを尊重し、コラボレーションの可能性を模索すること。それが複雑な社会問題に取り組むアーキテクトに必要なことではないかと思っています。