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石橋秀仁(zerobase)書き散らす

まじめなブログは別にあります→ja.ishibashihideto.net

情報空間と物質空間の違いが重要なのであって「インフォメーション・アーキテクト」などという物質空間のアナロジーによる自己規定はいずれ捨て去られなければならない

「情報社会」という言葉の関連(文脈)で「情報環境」というと、まるで物質空間的な「環境」と同じようなものに感じられるけど、それは誤謬だ。

主観的情報環境は十人十色。千差万別。大文字の(客観的全体としての)「情報環境」を語ることは難しい。そんなもの考えないほうがよいかもしれない。

情報社会・情報空間・情報環境を、従来の社会・都市空間・都市環境と同じように語るアナロジーは脆弱だ。そこには物質と情報の質的な溝が横たわっている。

だからこそ、「インフォメーション・アーキテクト」として、ぼくは自己批判を続けなければならない。

「その認識に立ちながらも、なぜ『インフォメーション・アーキテクト』を名乗るのか」という自己批判に応え続ける試みこそ重要だ。

ぼく自身は「インフォメーション・アーキテクト」という呼称に、暫定的に、ただし、強くコミットしている。

情報化時代(21世紀)の開発者像を考えるうえで、産業化時代(20世紀)の開発者像を参考にすることができます。つまり建築家(アーキテクト)を参考にすることができます。これが「インフォメーション・アーキテクト」という立場の出発点です。

社会の情報化についてインフォメーション・アーキテクトと一緒に考えて頂けませんか?

ぼくは「アーキテクト」ではない。「インフォメーション・アーキテクト」の「インフォメーション」は単なる修飾語ではない。「インフォメーション・アーキテクト」は、「情報空間に特化したアーキテクト」という意味ではない。つまり「アーキテクト」というアイデンティティではない。

ぼくは、まずもって情報空間の「開発者」だ。そのロールモデルとして「アーキテクト」を参照しているだけだ。力点は「インフォメーション」のほうにある。気分としては、むしろ「アーキテクト」のほうが「修飾語」だ。

いずれ「インフォメーション・アーキテクト」という呼称を捨てる、というか、乗り越える。いつになるかは分からないが。

「アーキテクト」というアナロジーの有効性には限界がある。それはすでに指摘した通りだ。

ユーザー・エクスペリエンス的な意味で、個人の主観的な「情報環境」は、他人と競合しない。都市空間のような物質空間よりも競合性が少ない。そのような「空間」においては「公共性」の在り方も変わる。

「公共性」は競合や共有に関わる。競合も共有もしない、無人島のロビンソン・クルーソーに「公共性」は定義できない。「有る無し」の問題ではない。「公共性」という言葉が意味を失うのだ。

ロビンソン・クルーソーの「環境」に比べて、我々の「環境」は多数の人間と関わりを持っている。つまり「情報環境」を考えるときに「情報社会」という観点も不可分だ。しかし、その「空間」の競合性の低さに注目しておく必要がある。「公共性」の在り方が物質空間とは異なる、ということだからだ。例えば、その最もラディカルな表現が『サイバースペース独立宣言』だ。

貴様等の言う財産・表現・自我・移動・情況などの法的概念は我々には適用できないのだ。貴様等のそれは物質を元にしているが、電脳世界には物質は存在しない。

あらためて、「その認識に立ちながらも、なぜ『インフォメーション・アーキテクト』を名乗るのか」という自己批判への、現時点の回答を。

現時点で「アーキテクト」を超える「情報社会の開発者のロールモデルないしロールイメージ」を概念的に確立できていないから、暫定的に近似解として「アーキテクト」を参照し続けているだけだ。

できるだけ早く「アーキテクト」を捨てたい。乗り越えたい。

だからといって「インフォメーション・アーキテクト」というアイデンティティへのコミットメントは嘘ではない。現在進行中の「情報空間の乱開発」への批判には、「開発者のロールモデルとしてのアーキテクト」という立場が有効だと考えているからだ。

現時点では、「インフォメーション・アーキテクト」と名乗らざるを得ないが、これは望ましくない暫定的な状態だ。この二律背反の状態に身を置きながら、考え続け、いずれ突破へと至るしかない。


ここからメタ。

物質空間と情報空間の差異を強調する立場で書いた。

一方で、ぼくの立場は、情報空間を物質空間の拡張として、物質空間側から統治の対象にしていくことに賛成でもある。

これは、まったく簡単な話ではないのだ。

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