「設定次第で何でもできる万能アプリ」がクソアプリである理由と、その向うにあるパラダイム
【これはとてもひねくれた文章なので、「実用的な情報を速やかに収拾したい忙しいビジネス・パーソン」は読まないほうがいい。警告はした】
【役立つ部分をさくっと読みたい方はシンプル版を用意しました】
fladdict氏の『スマホUI考(番外編) 顧客やユーザーの要望に全て対応すると、アプリは99%破綻する』は素晴らしい記事だ。
その記事のコメント欄でのやりとりが気になった。
【某氏】 先生! 設定画面で全てのUI機能要素を ON/OFFしたり、configファイルの編集でボタンのレイアウトを変更できれば良いと思います!
【fladdict氏】 その思想をつきつめると、設定オンオフで音楽プレイヤーからFacebook閲覧までユーザーが自在に切り替えられる万能アプリへの道に進むのです・・・
【某氏】 やりたいことが何でもできる万能アプリの複雑性と、デフォルト設定のシンプルさは両立しますからね。初めて触った時は、機能のシンプルさに感動し、使いこなすに連れて、実は自由にカスタマイズできる万能さに驚く・・というのが理想かなって思います。
この某氏のコメントを「UIデザインのイロハもしらない素人がfladdict氏の婉曲表現を理解せずに的外れな返答をしている」と切り捨てたくなるUIデザイン専門家も多いだろう。
だが、軽々に断じることはできない。ここを掘り下げると、非常に深い…
気が向いたら論じることにする。
試みに、典型的で「表面」的な批判のほうは、この文章の付録しておく。これは「軽々に断じた」ほうの内容であって、もう一方の「裏面」があることにも、ご留意頂きたい。その「裏面」については、また機会があれば書くということで…
…というのも何だから、「裏面」の結論だけ書いておくことにする。「設定次第で何でもできる万能アプリ」は、アラン・ケイのSmalltalkとダイナブックの思想、および「エンド・ユーザー・コンピューティング」一般を批判することになるのであって、やるなら本格的な理論を展開しないとダメだろうってことだ。
そういうコンピューティング史的な教養もなしに「設定次第で何でもできる万能アプリはクソ」と脊髄反射するのは、知的ではない。UIデザインの実践家としてはともかく、理論家としては失格だろう。
というわけで、「表面」的な批判例を付録しておく。まあ、ビジネス・パーソンでもあるUIデザイナーとしては、こちらが「正解」だろう。「表面」的だからといって、「浅い」というわけでも、「間違っている」というわけでもないのだ。
付録:「表面」の論理
【ここに書いてあった文章が『シンプル版』になりました。以下、『シンプル版』の転載ですので、既読の方は引用部が終わるまで飛ばしてください】
UIデザイン教育では、ふつう「設定次第で何でもできる万能アプリは、クソである」と教育されています。真っ当なUIデザイン教育を受けた人は、そういうものを見ると自動的に「クソ」だと思うようになっているものです。
でも、「設定次第で何でもできる万能アプリ」は、なぜ「クソ」なのでしょうか。その理由付けが問題です。
1. 美学的理由付け
デザイン教育のなかでも、工学系と美術系の教育体系は少し違うようです。おそらく美術系の教育では、美学的な理由付けをするかもしれません。その典型例が、バウハウスやミース流の “Less is more” 思想です。
美大生には “Less is more” で通じるかもしれません。しかし、そもそもそういう感性がないからこそ「設定次第で何でもできる万能アプリ」が良いと考えがちなのでしょう。ですから、美学的な理由付けは機能しません。別の理由付けが必要です。
そこで、美学的ではない理由付けとして、以下の二つの観点と理由付けによって、「設定次第で何でも出来る万能アプリ」を批判します:
- デザイン学的理由付け:人が初めて見るアプリを「何のために使う物だろうか」と想像・理解する過程の観点
- 経営学的理由付け:市場競争の観点
2. デザイン学的理由付け
人が初めて見るアプリを「何のために使う物だろうか」と想像・理解する過程の観点。「人工物の意味論」などとも言います。
「設定次第で何でも出来る万能アプリ」は、少し伝え聞いた程度では、「何ができるアプリなのか」が分かりません。そういうものは、一般に、インストールされることはありません。
また、「設定次第で何でも出来る万能アプリ」は、ユーザーにプログラミング能力を求めています。これは一般に「エンド・ユーザー・コンピューティング」と呼ばれます。
ところで、いわゆる「万能リモコン」は、別名「プログラマブル・リモコン」(programmable controllers)とも呼ばれます。「設定次第で何でも出来る」ことは、「プログラム可能」であるということです。そして一般に、プログラミング作業は面倒であり、人々は「すぐに使える完成品」を欲します。
我々は「プログラマブル・リモコン」よりは、「テレビを買ったら、それに付属してくる、すぐに使えるリモコン」を好みがちです。同様に、「設定次第で何でも出来るプログラマブル・アプリ」よりは、「インストールしたら、すぐに自分の用事が片付くアプリ」を好みがちなのです。
「設定次第で何でも出来る万能アプリ」は、そもそも何のアプリか理解されず、インストールされにくいと言えます。もし「プログラマブルなアプリだ」と正しく理解されたとしても、やはりそんな面倒なアプリはインストールされにくいものです。「設定次第で何でも出来る万能アプリ」の成功は難しいと言わざるをえません。
3. 経営学的理由付け
市場競争の観点。マーケティングや競争戦略の観点とも言えます。
「設定次第で何でも出来る万能アプリ」は、「個別のタスクに特化した、シンプルなアプリ」に市場で勝つことが難しいでしょう。
現実のアプリ製品においては「UIデザイン」だけが問題なのではありません。アプリは市場での競争にさらされています。そこには企業を「選択と集中」という経営判断へと誘う「市場の淘汰圧」があります。
リソースの限られた企業と企業が、市場で競争している以上、「あらゆる方面で勝とうとする総花的な投資」の結果は「あらゆる方面での惨敗」を意味します。
例えばTwitterアプリを例に考えてみましょう。こういうiPhoneアプリ開発の相場は、あまりUIデザインに詳しくない人が一見した規模観では、300万円程度に見えるかもしれません。ですが、おそらくTwitterはiPhoneアプリ開発に、それより一桁以上多い予算を投じているはずです。かつての有力サード・パーティー・アプリ Tweetie を買収した費用[^tweetie]なども考慮すれば、TwitterはiPhoneアプリ開発に億単位の金を投資済みであると見て間違いないでしょう。
たかだか「Twitterクライアント機能」ごとき、と思えそうな規模観かもしれません。しかし、そのような小さなアプリに「選択と集中」をして、億単位の予算を投じている企業があるわけです。[^simplicity]
さて、「設定次第で何でも出来る万能アプリ」を1億円の予算で作ったとしましょう。そのアプリには、おそらく何十もの機能が含まれるでしょう。一機能あたり300万円程度、つまり通常のアプリ1本分の予算がかけられるでしょうか。機能が多いと、機能毎の予算は減ってしまうわけで。
そのようなアプリが、はたして億単位の投資で作られたTwitterのiPhoneアプリよりも、魅力的になりえるでしょうか? 市場で消費者から「TwitterのiPhoneアプリより、こっちの万能アプリのほうがいい」と選ばれるでしょうか?
非常に分の悪い賭けだと言わざるをえないでしょう。なぜなら、「Twitterアプリ」を使いたいユーザーは、「Twitter社のiPhoneアプリ」と、「設定次第で何でもできる万能アプリ」の「Twitter機能」を比べます。ほかに色々な機能がひっついているのは関係ありません。ここでは、「億円アプリ」と、「百万円アプリ」の対決になっています。あまりにも分が悪いのです。
勝負は、機能の数ではありません。「そのユーザーが必要とする機能の完成度」や「そのアプリの利用を通じて得られる価値」の勝負になっているのです。あくまでも、そのユーザー個人の主観的な価値判断基準においての勝負です。したがって、アプリがもつ機能の「全体」は関係ありません。そのユーザーにとって関心がある部分だけが、比較検討の俎上に載せられます。
ここはマーケティングとデザインの接点です。前述のように、「何ができるアプリなのか」が分からなければ、ほとんどインストールされません。それはつまり「設定次第で何でもできる万能アプリ」の、マーケティング上の不利を意味します。一方の競争相手は「Twitter公式のiPhoneアプリです」と言っているわけです。さて、これで勝算があるでしょうか?
それに、あるユーザーが「使わない機能」は、そのユーザーにとっては「存在しない」に等しいと言えます。そもそも、その機能の存在を知ることすらないかもしれません。そのような「存在しない機能」を大量に作ることは、無駄でしかないと言えるでしょう。
企業のリソースは限られているため、「選択と集中」をしない総花的な投資は、市場競争における敗北へと帰結しやすいのです。
4. 結論
以上、
- デザイン学的理由付け:人が初めて見るアプリを「何のために使う物だろうか」と想像・理解する過程の観点
- 経営学的理由付け:市場競争の観点
の二通りの批判を通じて、「設定次第で何でもできる万能アプリ」が現実には成功からは程遠いアイデアであることを論じました。
裏面:「表面」への批判
付録の議論では、プログラマビリティやエンド・ユーザー・コンピューティングを悪しき物、「用事をこなすために不要なオーバーヘッド(準備作業)」として切り捨てている。しかし、それを「価値」だとみなす立場もある。それがここで論じなかった「裏面」の論理である。「iPadはダイナブックではない」と批判する人の立場でもある。
現実に市場で成功して、人々の生活を変え、社会を変えているのは、iPadだ。ダイナブックではない。しかし、そのことだけで「ダイナブックは失敗だ」「ダイナブックは絵に描いた餅だ」と言うのは早計だ。
というよりも、市場での成功をもってコンピューティング・パラダイムを正当化するという立場は、あまりにも思想の力を軽視している。市場という巨大なシステムに対して敗北主義的だ。それでは、株式会社の利潤最大化に奉仕する「資本主義的デザイン」はできても、よりよい未来に奉仕する「倫理的デザイン」はできない。それは職業倫理的な態度ではない。
したがって、職業倫理的な態度としては、次のように考える必要がある。エンド・ユーザー・コンピューティングの構想が「まだ実現していないから」という理由で切り捨ててはいけない。批判するならば、「実現するのが望ましくない」「それよりもっとこちらのほうがいい」といった批判が必要だ。そうでなければ知的に誠実だとはいえない。
非常に簡単にいってしまえば、
【某氏】 やりたいことが何でもできる万能アプリの複雑性と、デフォルト設定のシンプルさは両立しますからね。初めて触った時は、機能のシンプルさに感動し、使いこなすに連れて、実は自由にカスタマイズできる万能さに驚く・・というのが理想かなって思います。
という感覚は、Smalltalkを触っていれば現実にありえる。デフォルトではシンプルに使えるアプリを、自分なりに改造していくことは、Smalltalkなら特別なことではない。こればかりは、実際にSqueakやPharoといったSmalltalk処理系を触ってみなければ分からないだろうけれども。[1]
そういうわけで、某氏の「理想」は、決して夢物語ではない。誰かが「理想」という言葉を口にした時は、それが必ずしも現行パラダイムの範疇で構想されてはいないかもしれない、と留保しておきたい。この場合、その「理想」に近い「現実」が私の中にあったので、見過ごせずに引っ掛かったのだ。
【なんか気付いたら「裏面」に書きたいことの概要はだいたい書いてた。もっと詳細に書けば長くなるけど、まあいいや。それこそ、気が向いたときに続きを書くことになるだろう】