石橋秀仁(zerobase)書き散らす

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「既存市場を破壊する破壊的イノベーションは倫理的ではない」のか?

How low-end disruption occurs over time.

表題のような議論[1]があると知りました。ここで反論を試みます。市場の「破壊」は、決して「悪いこと」などではないのだと主張します。

前提としての「イノベーション」という言葉

そもそも、生態系における進化のアナロジーとして、「イノベーション」という言葉が用いられてきました。少なくともクリステンセンは、そのような意味で「イノベーション」という言葉を用いて、「破壊的イノベーション」を語りました。ですから、「破壊的イノベーション」について語るならば、まずそれを踏まえておく必要があります。

「イノベーション」は市場経済の進化的プロセスの理念系を意味します。「理念系」で難しければ「パターン」と解釈してください。市場という「生態系」(エコシステム)において人工物が「進化」していくプロセスを、「イノベーション」と呼びます。この文章で単に「イノベーション」と言った時は、この「市場経済における進化的プロセスの理念系(パターン)」を指します。

次に、イノベーションの成果もまた「イノベーション」と呼ばれています。日本語では「iPhoneはアップルのイノベーションだ」などと言います。このタイプの「イノベーション」を、「市場経済における進化的プロセスの理念系(パターン)」と区別して、「イノベーションの成果(イノベーティブ・プロダクト)」と呼ぶことにします。

また、理念系ではなくて個別事例としてのイノベーションのプロセスも観察できます。「Twitterのハッシュタグは、もともとユーザーが自発的に使い出した慣習であり、それが公式に機能として取り込まれた」といったプロセスもまた「イノベーション」と呼ばれます。このタイプの「イノベーション」を、「市場経済における進化的プロセスの理念系(パターン)」と区別して、「イノベーションのプロセス(イノベーティブ・プロセス)」と呼ぶことにします。

ここまでの説明で、

  • 市場経済における進化的プロセスの理念系(パターン)としての「イノベーション」
  • 個別事例的なイノベーションの成果(プロダクト)
  • 個別事例的なイノベーションのプロセス

の区別をしました。

さらにクリステンセンは、「市場経済における進化的プロセスの理念系(パターン)」としての「イノベーション」を、「持続的イノベーション」と「破壊的イノベーション」の二つに区別しました。

そこで、次は「破壊」(ディスラプション)という言葉の説明です。

「破壊」の原理

「破壊」の原理は、クリステンセンによれば、「オーバーシュート」と「ジレンマ」という言葉によって説明できます。

持続的イノベーションが「オーバーシュート」(過剰適応)した結果として、市場が「破壊」され、新たなイノベーションの軌道に移る。そのプロセスの前半を持続的イノベーション、後半を破壊的イノベーションと呼んでいるわけです。[2]

「オーバーシュートするまで持続的イノベーションを続けなければいい」と思うかもしれません。しかし、分かっていても、なかなか抗えない原理が働いています。「ジレンマ」という呼び名は言い得て妙です。[3]

もう少し詳しく説明します。市場の平均的な要求パフォーマンス水準を遥かに超えるところまで改善(持続的イノベーション)してしまった結果がオーバーシュート(やり過ぎ)です。オーバーシュートしている市場には、新興市場がシンプルでチープな製品を投入するための隙が生じます。つまりは「破壊的イノベーション」の隙です。[4]

既存市場はローエンドから破壊されていきます。既存市場で成功していた企業は、ハイエンド市場へと向かいます。つまり、より少数の顧客に、より高級な製品を売るようになります。ローエンドから参入した新興企業(群)の勢いは止まらず、その顧客層を拡大していき(持続的イノベーション)、いずれ市場のほとんどを獲得していくことになります。その帰結は、新たなオーバーシュートです。次なる破壊的イノベーションの隙が生じます。

かつての破壊者は、いずれ破壊される側に回ります。これはほとんど不可避であり、だからこそ「イノベーターのジレンマ」(Innovator’s Dilemma)[5]と呼ばれます。クリステンセンが語ったのは、そういう宿命です。

そもそもオーバーシュートは、経済学的には「希少な資源の無駄遣い」「過剰品質の恒常化」と解釈できます。「破壊」は、そのいびつな状態を「調整」するために自然に起こるプロセスだと言えます。いわば、水が高きから低きに流れるような「法則」として、オーバーシュートが破壊を導くのです。「在庫調整」が「景気循環」の一因であるのと似ています。クリステンセンの破壊的イノベーション理論は、そういうエコシステムのメカニズムを語ったものとして理解できます。[6]

「破壊」の良し悪しを問う意味

破壊のプロセスをミクロに見れば、「野心的で利己的な起業家が、既存の市場を破壊して、多くの人を不幸にして、自分だけ豊かになっている」ように見えるかもしれません。「破壊は良くない」と倫理的に語ることに、何らかの意味があるかのように見えるかもしれません。

しかし、「破壊的イノベーション」が悪いのではない、と私は考えます。「破壊的イノベーション」は、市場の自然な動作原理として起こります。持続的イノベーションはオーバーシュートしがちだし、オーバーシュートした市場は破壊的イノベーションを誘うのです。そのような、ほとんど「自然法則」とでも呼ぶべき市場原理に、良いも悪いもないでしょう。

もし「破壊的イノベーション」そのものを「悪い」と断じると、どういうことになるでしょうか。それは経済の全体的な「過剰品質化」を肯定します。しばしば「日本では、すべてが高品質だが、すべてが高価である」などと言われます。それこそまさしく破壊的イノベーションが足りない状態です。それを肯定することになります。

私の意見は違います。オーバーシュートした市場(過剰品質が恒常化した市場)は、破壊的イノベーションによって調整されたほうがよいです。とくに弱者・低所得者層にとっては。

破壊と流動

私は破壊的イノベーションを歓迎します。「破壊」される市場の従事者や資金は「不幸」でしょうか。違います。速やかに次の居場所を見つけられるような、流動性の高い経済・社会であるならば。

リスクを恐れ、失業を恐れ、既得権にしがみつく。そのような心性が、日本経済を停滞させます。次々と成長企業が生まれることで、「失業しても、すぐに次の仕事が見つかる社会」「だから挑戦する人がたくさんいる社会」にしたいものです。

「破壊的イノベーションが怖い」ならば、そのような現状の社会システム・経済システムに、問題があるのです。必要な流動性を、確保できていないということなのです。問題の在処を見誤ってはなりません。

結論

「破壊的イノベーション」そのものが「悪い」という立場は、日本経済の恒常的な「過剰品質化」を肯定し、既得権保護と、階級格差の固定化を肯定する立場です。


  1. 日本はもっと、エンジニアを大切に:まつもとゆきひろ氏の「新経済サミット2013」語録における「日本から破壊的イノベーションを起こす必要はあるのか? 破壊するということは、痛いということ。痛くてもいいのか? イノベーションの怖さを甘く見ているのではないか」という発言から波及したようです。余談ですが、「なんでRubyなんか作った!? 迷惑だ!」と言われたことがあるそうです。  ↩

  2. 私見では、「バブル」のメカニズムに似ているようにも見えます。  ↩

  3. 詳しく知りたければ『イノベーションのジレンマ』をどうぞ。  ↩

  4. ここでいう「パフォーマンス」は、一般化・抽象化された意味です。簡単に言えば、ある市場を構成する製品カテゴリについて、消費者が「良し悪し」を評価する尺度のことを「パフォーマンス」と呼んでいます。  ↩

  5. 日本では『イノベーションのジレンマ』で知られるクリステンセンの主著は、本来は『イノベーターのジレンマ』 (Innovator’s Dilemma) という題名でした。ところが、『イノベーションのジレンマ』という題名になってしまったので、「良いイノベーション」と「悪いイノベーション」がある、といった話に誤解されやすくなってしまったのではないでしょうか。その結果として「破壊的イノベーションは本当に良いものなのか?」といった話も出てきたのではないでしょうか。ミスリーディングな翻訳だったのではないでしょうか。  ↩

  6. シュンペーターはイノベーション理論の創始者ですが、景気循環の理論家でもあったんですね。そのことと浅からぬ関係があるようにも思えます。シュンペーター景気循環理論については、ぼくも詳しくありませんが。/なお、「オーバーシュート」の存在は、「破壊」が起こった後で、事後的に確定されます。「破壊」の前に「オーバーシュートがある」と主張しても、仮説に過ぎません。「ここにオーバーシュート、つまりは破壊的イノベーターにとっての事業機会が、あるのだ」という仮説を事前に信じている人が「起業家」です。野中郁次郎の知識創造理論によれば、そのような個人的な「信念」を、広く社会で受け入れられた「真実」へと向けて正当化していくプロセスこそ(ミクロな)「イノベーション」です。  ↩