石橋秀仁(zerobase)書き散らす

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情報技術は文字(エクリチュール)を制度(エクリチュール)化するので、字形の進化は遅くなっているかもしれない

文字は進化しにくくなっている。かつては活字化によって文字が制度化された。そしてコンピューター化によってさらなる制度化が完成した。Unicodeは強力な制度だ。字体や記号($&ー・など)はますます変化しにくくなった。

記号としてのエクリチュール

フランスの哲学者ジャック・デリダや、日本の哲学者東浩紀の考えたことを思い出しながら、ちょっと抽象的なことを言ってみる。

エクリチュール(文字)の物質性」という概念がある。要するに「文字はそれ自体に意味がなく、それによって表される内容にこそ意味がある」という記号論的な考え方(シニフィアンの恣意性)がある。言い換えると、「文字それ自体は、内容を伝える透明な媒体でしかない、空気のような存在でしかない、だから何でもいい(つまり字体など恣意的に選ばれているだけである)」という考え方だ。

そういう考え方への批判として、「エクリチュール(文字)の物質性」という考え方がある。これを説明するには象形文字が分かりやすい。漢字を思い浮かべてもらえばいい。「木」という文字は、「植物である木」という意味内容を表している。しかし、この「木」という文字の形(字形)は、木が生えている様を表す象形文字に由来する。

ほら、さきほどの「透明な文字(エクリチュール)」という考え方は間違っているじゃないか。「文字それ自体は、内容を伝える透明な媒体でしかない、空気のような存在でしかない、だから何でもいい(つまり字体など恣意的に選ばれているだけである)」という考え方は、「木」という文字には当てはまらない。

ちなみに、「透明なエクリチュール」という考え方はアジアからは出てきにくいと思う。一方、ラテン文字・アルファベットなどでは、字形自体に意味が無い。だから「透明なエクリチュール」「記号の恣意性」などという考え方が西洋から出てきたんだろう。

制度としてのエクリチュール

さて、冒頭の話に戻りたい。「エクリチュール」という言葉は、とても抽象的な意味で使われる。例えば社会の「制度」をも指してエクリチュールと呼んだりする。活字やUnicodeのような制度も「エクリチュール」だ。

つまり、こういうことだ。活字やUnicodeが、文字(エクリチュール)を制度(エクリチュール)として社会に書き込む。

エクリチュール(書かれたもの)は残る。持続する。そもそも「残そう」とする人が、書かいたのだ。そこには「残したい」という意志がある。そして、「書くことによって残そうとする」という行為は、言い換えるとエクリチュールに存在感を与えるということでもある。「力を与える」と言い換えてもいい。

そうしてエクリチュール(書かれたもの)は政治の対象になる。政治とは「力のゲーム」である。世の中にはいろいろな人がいて、いろいろな物事をエクリチュールとして残そうとしている。いろいろな人が「自分が残したいと思うもの」をかけて争っている。今風に言えば「アテンションエコノミー」における、人々の注意・関心の獲得競争と言ってもいい。

そういうエクリチュールのエコシステム(生態系)のなかで、日々激しい競争が行われている。あなたがいま読んでいるこのエクリチュールだって、私がこういう考えを残し、伝え、同意する人が増えればいいなと思って書かれたものなのだ。この記事がどれほど読まれるかは、アテンション・エコノミーにおける生存競争と言ってもいい。

そうして競争に勝ったエクリチュールは、社会の制度となる。制度とは何も法律だけではない。法律より広い概念だ。常識や慣習も「制度」なのだから。

例えばロックの「社会契約論」やルソーの「一般意思」は制度になった。ティム・バーナーズ・リーの「ワールド・ワイド・ウェブ」も制度になった。いまリーが提唱している「リンクト・オープン・データ」「データのウェブ」は、制度になるかどうかが問われている段階だ。

エクリチュールの進化

エクリチュールのエコシステム(生態系)では、どのような「進化」が起こるのだろう。それは、エクリチュールそれ自体の進化ではない。エクリチュールの自然選択・淘汰の結果として、強いエクリチュールが残る。そのプロセスが「進化」なのだ。

ではエクリチュールそれ自体は変化しないのか。そうだ。エクリチュールそれ自体は変化しない。

例えば、ルソーが1762年に発表した『社会契約論』は、彼が書いてから変化していない。しかし、「一般意思」をめぐって様々な人が様々なエクリチュールを生み出した(様々な文章を書いた)。「一般意思」を批判するエクリチュールも生み出された。

そういうエコシステムのなかで、いまだにルソーが1762年に発表した『社会契約論』というエクリチュールは生き続けている。つまり進化プロセス(自然選択)に勝ち続けてきた。そういう進化プロセスを経てもなお、ルソーが1762年に発表した『社会契約論』というエクリチュール自体は、ルソーが書いた時点からまったく変化していない。

ところで、ルソーが1762年に発表した『社会契約論』というエクリチュールは変化しなくても、そこで表現された「一般意思」という概念のほうは変化してきた。例えば東浩紀が2011年に発表した『一般意志2.0―ルソー、フロイト、グーグル』では、「一般意思」という概念のアップデートが図られている。これは派生エクリチュールであって、いわば「二次創作」と言ってもいい。そうやってエクリチュールは進化するのだ。

まとめよう。

そういう派生と淘汰のプロセスこそ「進化」と呼ばれるものだ。ルソーが1762年に発表した『社会契約論』というエクリチュールは、いわば「生きた化石シーラカンスのようなものだ。それ自体は太古より変化していない。しかし、進化のプロセスを、生き残ってきた。

情報技術が与える慣性

話はまだ終わらない。情報技術はエクリチュールの物質性に大きな慣性を与える。つまり字形が変わりにくくなる。大きな質量を加えて、動きにくくする。変化しにくくする。

情報技術は文字コードというものを決めた。現在主流のUnicode文字コードの一種だ。文字コードとは、それぞれの文字に、1つずつ番号を与えたものである。関心があればUnicode文字コード表を見てみればいい。例えば「B」という文字のコードは66だ。一つ前の「A」なら65になる。

文字コードシステムにより、「B」は厳密に「B」そのものであって、字形が似ていても「8」とは区別される。フォント(字体)は自由に選べるので、例えば「8」という数字の見た目が「B」になるようなフォントを作ることもできる。しかしコンピューターは、文字の見た目ではなく内容で判断する。「8」と「B」は別の文字であるとみなされる。

コンピューターにとって「文字コード」と「字形」は完全に区別されており、そこに曖昧さはない。「象形文字」など無意味だ。「木」という文字の形が「木」である意味など、まったくない。文字コードと字形は区別されているし、その結びつきは「恣意的」なのだから。これはかつての「透明なエクリチュール」という概念が再来したかのようじゃないか。

この「似ている字体を明確に区別する」という情報技術の特性は、エクリチュールの物質性に影響を与える。さらに「同じ文字なら同じ字形・字体で表示される」という性質は、文字の制度化を強力に推進する。現在の文字システムを強固にする。将来の変化の余地を減らす。つまり、エクリチュールに大きな慣性を与える。

現代人は、しばしば電子メールよりも手書きの手紙を重んじることがある。「気持ちをこめて手紙を書く」などという。そこではエクリチュールの物質性が問題にされている。人々はすでに知っている。コンピューターがエクリチュールの物質性を剥奪するのだと。書き手が文字に込めた気持ちが、筆跡となって届くようなことはない。そういう物質性はすべて剥奪され、透明な記号として届くのだから。

人々はすでにそれを知っている。

全体のまとめ

長い話になりつつあるので、このあたりでやめておこう。最初に言いたかったことは、要するに、

  • 文字(エクリチュール)は制度(エクリチュール)化されてきた。
  • 制度は慣性力を持つ。つまり制度化されたものは変化しにくい。
  • ゆえに、文字は変化しにくくなってきた。

ということだ。

話し足りない部分については、また気が向いたら。さわりだけ書き散らしておこう。

今日のデザイナーは、市販のフォントを使う。かつてのように手で文字をゼロからスケッチすることは減っている。これもエクリチュールの制度化と、物質性の縮減ということだ。

冒頭で書いたこと。字体や記号($ー・など)はますます変化しにくくなった。それをもっと詳しく。例えばアンパサンド(&)は、今日の字形になるまでに、様々な変化をしてきた。それが情報技術によって固定化されたのではないか。社会のなかでの「&」のバリエーションは減ったのではないか。そういう懸念。

どちらにも共通するのは「手書きは自由な字形を作る」ということ。まさにエクリチュールの物質性の話だ。手で紙に書く。すべてが物質的、フィジカル、肉体的だ。そういう話。