石橋秀仁(zerobase)書き散らす

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「セクハラ・インターフェース」と「おっぱい短歌」

2013年1月12日に『これからの性とアートの話をしよう』というイベントがあった。そのイベントに「おっぱい短歌」が登場した。それについて主催者市原歌織の論文を目にして気付いたことがあった。たいした話ではないのだが、メモしておく。

市原歌織の論文『セクハラ・インタフェース:性と身体を巡る表象とテクノロジー』は、アートにおける女性性の表現を類型化している。男性による「性幻想の象徴」や「従順で意志を持たないオブジェクト」、あるいは女性による「アブジェクションに満ちた身体イメージ」を例示している。

これらの類型に収まらない身体表象として山中千瀬の「おっぱい短歌」がある。『率 月刊 吉田隼人 3月号:おっぱいから皮膚へ』の解説を引用する:

おっぱいのせいで内面的なものがうまれくる ここ ここにも皮膚が
(山中千瀬「さよならうどん博士」『早稲田短歌41号』)

 おっぱいを指す表現はあまりに多い。多いのだけれど、そこには何か同じ意味=方向性があるようでもある。それはたとえば女性性の象徴であり、女性の身体性の突端であり、豊饒の象徴であり、男性の欲望を一手に引き受けるとともにそれを反照しもする対象aであり、あらゆる哺乳動物の生命の源であり、単に重くてかさばる脂肪の塊である。

(略)

 ここに来てようやく山中の掲出歌に至るのであるが、ここで試みられているのは「おっぱい」の身体性/言語性の問い直しという、こう言ってよければ「おっぱい短歌のコペルニクス的転回」のような作業である。

 「おっぱい」には生・性・死・愛といった過剰な意味が負わされていき、さらにそこに比喩という言語的問題が重ねられることでいよいよ「おっぱい」は重みを増していく。その動きに対する性急な反動として瀬戸や望月のいう「乳房」や「おっぱい」は意味を一気に奪い去られることで異常に軽量化され、もはや「おっぱい」「乳房」という文字だけがそこにあるようですらある。重すぎるおっぱいも軽すぎるおっぱいも不便なだけだ、とでも言わんばかりに、山中は「おっぱい」にまつわる過剰な意味付けのプロセスそのものを問題化することで、短歌の文脈に「おっぱい」を回収しなおそうとしているのだ。

(引用注:強調は筆者による)

女性自身により発信された新たな身体表象として「おっぱい短歌」を理解することができる。

そして、吉田論文の冒頭(上記引用で省略した部分)では、「おっぱい短歌」の背景も紹介されている:

かつてこの山中を発端に、学生短歌会の一部関係者がツイッター上で「おっぱい短歌」と称する馬鹿騒ぎを起こしたことがあって、古今東西さまざまな歌人の「おっぱい」や「乳房」を詠んだ歌が次々に紹介されたのだが、基本的にどの歌も上記の問題系に回収されうるというか、少なくとも同じ地平の上に位置していた。

つまり、山中の「おっぱい短歌」は、「ソーシャルメディアで女性自身により発信された新たな身体表象」だと言える。

ここで冒頭の市原論文にもどる。この論文は以下のように締めくくられている:

確かにテクノロジーは女性に自己のアイデンティティや身体について、ラジカルに主張する手段を与えたのかもしれない。

フィジカルコンピューティングやソーシャルメディアという新たなフィールドを舞台に、女性達が積極的に発信する新たな身体表象がこれから世界に出回っていくことを期待できるだろう。今後も身体が本質的に持つ生々しさ、日本人の性にまつわるクリエイティビティというテーマを追求し、機械技術と女性、テクノロジーとナマモノという一見相容れないものをブリコラージュする表現手法を探りながらメッセージがラジカルに伝わる作品を制作していきたいと考えている。

「おっぱい短歌」は「ソーシャルメディアで女性自身により発信された新たな身体表象」である。市原が『これからの性とアートの話をしよう』に「おっぱい短歌」の山中を招いた必然性が、ここにあったと言えるかもしれない。

以上。

たいそうな結論を期待していた読者にはすまないが、冒頭で言った通り、たいした話ではない。

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