アクセシビリティのリブランディング
第4回アクセシビリティキャンプ東京に参加したのち『アクセシビリティは〈裏技〉として普及する』という文章を書きました。書いた文章はこれ以外にもあるので、ここに掲載します。
冒頭のお話
「『アクセシビリティ』は下火になっている。流行ってない」という指摘がありました。そこで「アクセシビリティを『品質』と捉えてはどうか」という提案がありました。また、ウェブサイトのランキングが好きなWeb担当者も少なくないようなので、ランキングの評価基準にアクセシビリティが入ればよいのではないか、とも。
リテラシー
次のような発言がありました:
たしかにその通りで、人々が「目利き」になればいい、という話です。ふつうにやると教育コストが問題になります。『アクセシビリティは〈裏技〉として普及する』というアイデアは「裏技リテラシー」として、人々のアクセシビリティのリテラシーを高めるアイデアです。
アイデンティティと政治
こういう指摘もありました:
アクセシビリティを語る人が、もっと当事者のことを知ってほしい、当事者性を持ってほしい。
平たく言うと、「アクセスビリティへの依存度が高い人」の現実を知ったうえで「アクセシビリティは大事」と言って欲しい、と。耳の痛い話ですが……
「アクセシビリティへの依存度が高い人」とは、アクセシビリティの恩恵を多いに受けている人だったり、逆にアクセシビリティを必要としているのにその恩恵にあずかっていない人などです。
そういう当事者の声を聞く機会を増やすとか、当事者を組織化して「声を大きくする」といった、広義の「政治運動」が大事だという考え方です。
この話を聞いて共感しました。アクセシビリティ向上には、当事者性のある政治運動が重要でしょう。「障がい」がアイデンティティなのであれば、そのアイデンティティで団結し、政治的に運動するのも当然のことです。
政治運動については:
日本では欧米に比べて政治運動が弱い。
という指摘もありました。私はそれについて判断できませんが、一つだけ言えることは、「公共部門のウェブ・アクセシビリティ水準を法で担保する」といった成果を得るためには、当事者性のある政治運動がきわめて重要だろうということです。
アクセシビリティ向上のための政策
「アクセシビリティの低いウェブサイトを作ると違法になる」ような法規制については、一部賛成、一部反対です。公共部門については賛成、民間部門については反対です。
民間のアクセシビリティ投資を促進するには、投資減税がよいと考えます。アクセシビリティ投資には外部経済性があり、社会全体で過少投資であるため、投資減税によって社会全体での投資を促進するというロジックは妥当であり、賛同も得やすいだろうと考えます。というより、反対する人が思い浮かびません。
具体的にどういう制度にするか、という制度設計論は専門外なのですが、私としては民間のアクセシビリティ投資を促進するには減税が有効だろうと考えます。
なお、公共部門へ一定のアクセシビリティ水準を義務づける法制度に賛成なのは、それが民主主義において決定的に必要な「情報へのアクセス権」を万人に保障することだからです。つまり「オープン・データ」や「オープン・ガバメント」と根っこは同じです。政府にデータを要求するのと同じように、ウェブ・アクセシビリティを要求するのも当然です。普通に考えて、生データよりHTMLのほうが優先されるべきですね。
レッシグのフレームワークの限界
最初はレッシグのフレームワークで考えようとしましたが、このフレームワークの限界を知りました。レッシグのフレームワークを説明すると「ある行動を規制するには、四つの手段がある」というものです。
- 規範・倫理
- 法
- 市場・競争・経済性
- アーキテクチャ・情報システム
レッシグのフレームワークは「ある状態や行動 A を規制する」という文脈で用いるのが妥当です。
ここでは変数 A に「アクセシビリティが低い状態」を代入することでフレームワークを適用します。しかし、これでは「楽しんで not A を実現する」という話にはならないのです。(※補足すると、not A は「アクセシビリティが低くない状態」です)
「アクセシビリティ」をめぐる言説には「悪い現状を改善する」といった、いわば「穴を埋める」ような議論が多いと感じます。私自身、それに陥っていたことに気付きました。
もちろん「マイナスを減らす」努力も大事です。しかし、「プラスを増やす」ような努力も大事です。どちらも使える「両刀使い」になりたいものです。