石橋秀仁(zerobase)書き散らす

まじめなブログは別にあります→ja.ishibashihideto.net

横断性の専門家

これは自分について考えた文章。ひょっとしたら自分を納得させるための文章です。

「なぜアーキテクトなのか」という問いに答えるための文章です。

私は横断性の専門家です。これはパラドキシカルに響くかもしれません。「専門」は垂直方向の掘り下げであり、それゆえ「縦割り」と呼ばれる境界を作り出すものです。「専門」が自己目的化したら「タコツボ」や「オタク」と呼ばれます。

「専門」と「横断」は対立する概念です。ならば「横断性の専門家」とは何なのでしょうか。

まずは「横断性は自己目的化しないのだろうか」という問いから考えてみましょう。横断性は自己目的化します。自己目的化した横断を「遊び」と呼びます。境界を侵犯する「遊び」。何にもコミットすることなく、ただその侵犯を楽しむ、自己目的化した横断。行きすぎれば「衒学的」(ディレッタント)になります。しかし、後に述べるように、この「遊び」の感覚は大事です。

さて、「自己目的的な遊びとしての横断」に対して、「目的のための横断」「手段としての横断」があります。どういうことでしょうか。よりよく理解するために、対概念である「専門性」を再検討してみましょう。

「目的のための専門」「手段としての専門」という言葉を考えてみてください。まず問題があり、その解決のために専門的な知識や経験が動員されることを意味しています。

このとき「専門がつねに問題に先立って存在する」ということに注目してください。問題解決の手段が問題に先立っているということです。それは、新しい問題に対して適切な専門性が存在しないときには、弱点にもなります。

専門性を高める研究や訓練の体系は、長い年月を経て、世代を超えて、洗練されていきます。その蓄積は、しかし問題に先立ってしまう。様々な専門性の隙間に落ちるような難題が現れたときに「専門家」は困ります。

専門的研究・訓練は、すでに現れた問題か、来るべき問題に備えるための活動です。その「備えとしての専門性」を超える問題に対しては、専門の領域〔=境界〕が有効とは限りません。ここに「専門性」というものが原理的に抱える困難があります。

余談ですが、90年代の以降の大学・大学院の「ポストモダン的な知の総合化」の背景には、このような文脈もあります。

専門性はパラダイムです。人は身に付けた専門性から問題を発見し、解決しようとします。ならば、専門性は「問題を見落とさせる曇ったレンズ」にもなりうるのです。

レンズの曇りを拭うにはどうすればいいでしょうか。専門性に囚われないことです。つまり、専門性の境界を侵犯する「遊び」の精神、「遊び」の態度、これです。

余談ですが、まるで『構造と力』みたいな話になってきました(笑)

まだまだ言いたいことはあるのですが、ひとまずさわりだけで。