石橋秀仁(zerobase)書き散らす

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アンビバレントな高専

高専はすごいかも知れないが行くのは止めておいたほうがいい - 下林明正のブログ』を読んだ。

ぼくは「行くといい」とも「行かないほうがいい」とも言わない。

高専は国策によるエンジニア育成機関なのであって、「視野狭窄に陥る」のは学校設計上の失敗ではなく、むしろ「成功」なのだと思う。

そして、ぼくはその善し悪しを客観的に語れる立場にない。

そういう「狭さ」が嫌で飛び出したけれど、そのエネルギーは「狭さ」への反動として得たのだから。

なお、同じ高専でも、校風の違いというのはあるのだろう。

ぼくが卒業した久留米高専(国立久留米工業高等専門学校)は、かなり自由な校風だった。

受験勉強はなかったものの、専門課程については4〜5年生のときに、同年代の大学1〜2年生よりは勉強しただろうと思う。かなりの詰め込み教育だと思う。

その一方で、要領よくやれば授業をサボっても単位が取れるので、好きなことをやる時間も作ろうと思えば作れる。

これは余談だった。本題に戻ろう。

ぼく自身は在学中の閉鎖性よりも、卒業後の進路の選択肢の「狭さ」が嫌だった。言うなれば進路についての視野を広げるような進路教育というものが無かったということだ。高専社会の狭さから、色々な人に相談するといった機会も少なかったし。

このような「狭さ」は、学校の成り立ちに深く関係しているはずだ。高専には設備投資がなされており、学費は安い。つまり国費が投じられている。高専は、国費を投じてエンジニアを育成する機関なのだ。

その高専生が、一般的な「就活」をしたらどうなるか。国費により行われた工学教育が活きないような職業に就くことが増える。したがって、やんわりと「職業選択の自由」が奪われている。高専とは、そういうところだ。だから「視野狭窄に陥る」のは学校設計上の失敗ではなく、むしろ「成功」なのだと書いた。

その「狭さ」なんてものは、結局は誰に規定されるのでもなく、自分が勝手に狭めているだけだとも言える。しかし、それをすべて「自己責任」としてしまう議論はいただけない。そもそも社会化が未完了である「子ども」を社会化するための制度である「学校」を論じる際には、はなはだ不適切な態度だ。「子ども」である「学生」は、まだ「自己責任で自己決定できる主体」ではないのだ。それを加味した議論でなければ、妥当ではない。

結論として、高専はダメな学校であり、素晴らしい学校でもある。おそらくは、ほかのどんな学校でも、そういう両面を持つだろう。だから、「行け」とも「行くな」とも言えない。選択肢の一つでしかない。それは受験生である中学生本人と、親や教師が、一緒になって考えるべきことだ。ぼくにできるのは、卒業生として体験を語ることくらいだ。それが少しでも進路選択の参考になればいいと思う。