クックパッドのつくれぽでアレンジされると傷つくというレシピ作者に見るアンチリベラルな感受性
つくれぽで「砂糖を減らした」と書かれたので傷ついた、っていうレシピ作者がいるそうです。
些細な話ではあるけど、
- 価値観の多様性を信じてる度合い→個人主義
- 人々が自分と「同じ」であって欲しいと信じる度合い→全体主義
の政治哲学的スペクトル上の立場が、にじみ出ちゃってるような気がした。
「料理の味つけ」という話題に、土着的な精神風土が現れちゃってるんじゃないかなあと。
日本で「人は人、自分は自分」と多様性を受け入れるリベラリズムの人気が低いのは、こういうことなのかも。
まあ「評論」と言えないような雑な、単なる着想の段階ですけど。
(追記)
ちなみに、「嫌だなあ」(=「同じであって欲しいなあ」)という「全体主義寄り」(誇張)の感性を非難するわけじゃないんですよ。誤解のなきよう。
「嫌だなあ」って感じてもいい。感じ方も自由。そうじゃないと「リベラル」じゃない。「みんなリベラルじゃなきゃ嫌だ」って人は、メタなレベルではリベラリズムを裏切ってる。
ぼくの前提はこうです。「たとえどう感じたとしても、公的(パブリック)な場ではそれを隠して、あたかも他者の違いに寛容であるかのように振る舞う」のが近代のエートス(心の習慣)だと思うわけです。
つまり建前でいいんですよ、リベラリズムなんて。でも、その建前が近代社会の前提だし、人々が公的には(家の外では)そう振る舞っていなければならない。
- パブリック=家の外
- プライベート=家の中
でも、家庭料理ってのは、家の中の話ですね。ちょっと面白い。
つくれぽって、家の中の「プライベート」な情報を、ネットに匿名で公開(パブリッシュ→パブリック→公的)したことへのフィードバックなんですよね。
そこでレシピ作者が、政治的に正しい(ポリティカル・コレクトネス)な「リベラルな建前」で振る舞わない理由は?
単に「匿名だから政治的に正しくない本音を出してる」ってことだけでなく、そもそも「家の中(プライベート)の話題」ってことと影響してるのかもな。
ネット特有だけど、「プライベート」な話を匿名で公開(パブリッシュ)するときには、「政治的正しさ」という建前で取り繕わない本音が出てくるということかもしれません。
だとすると、冒頭のレシピ作者もふだんの公的生活では、リベラルな建前を守ってるのかもしれないですね。まあ、確率は低いと思いますけど。
…この文章についてメタにネタバラシ(自己批判)すると、この文章自体が「他人をよく知りもせずに安易に決めつける偏見的態度は政治的に正しくない」っていう建前で補強されてますね。後付けで(笑)
こうやって悪びれずに開き直ることができるのも、「多様性の尊重」なる観念がしょせん「建前」であって、「真の正義」などといったことではないからです。
ぼくはきれいなお題目をベタに信じてるわけじゃないんですよ(笑)
こんなのは近代社会を回すための建前でしかない。だからこそ「(近代以前の土着的な)本音は別にあってもいい」という、この追記を書くことにしました。
追記のほうが長くなりましたが、やはり「書かなければ何も解らぬ」ものですねえ、小林先生。文章を書くことは、自分を知ることだってね。以上メタメタなコメントにて筆を置きます。