石橋秀仁(zerobase)書き散らす

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病名という「権威付けされたスティグマ」を相対化する共感回路としての「一時的障害」という概念

このまえバリバラに強迫性障害のひとが出てて、「いやはや大変だねえ」と思ったんだけど、一時的にはぼくにも同じようなことってあるなあ、とも思った。「マクドのポテトくいてー」モードになったらその目的を達成するまで他の何も見えなくなる感じ。

こういう「一時的障害」って色々あって、花粉症で目がほとんど見えなくなったときには視覚障害者の気分になったし、うつっぽい気分で何もする気力が無くベッドのうえで一日過ごすこともある。ド忘れは認知症に通じる。

きっとこの程度の「一時的障害」って誰にでもあって、その延長で障害というものを考えてみてもいいのではないかと思った。つまりある意味では量的尺度としての相対化が可能だろうと思ったわけだ。

言い換えると、「○○病」「○○障害」「○○症」といった「権威付けされたスティグマ」によって、いろいろと問題がおかしなことになってるのを、批判的(クリティカル)に理解しなおしたいですよねと。

一方ではアイデンティティと政治の問題もあるので、そうそう簡単に量化・相対化して終わっていいわけでもないけども。

両方の視点が大事だという前提で言えば、「一時的障害」を万人が経験しうるという切り口から「障害」が誰にとっても身近だという言説って、あんまりないなあと持ってるんですよね。

ぼく自身はアクセシビリティの話をするときなどには、言うようにしてるけど。

念のため、文意を明確にしておきますよ。「健常者」の側から「障害者」の側への共感を起動するための回路を模索してます。「単なる量的問題に過ぎない」と問題を軽んじるためではありません。