石橋秀仁(zerobase)書き散らす

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組織の優秀さ、個人の優秀さ、ビジネス批評の解像度

組織外の人間が「こうすればいいのに」と思うようなことを、組織内で実際にやろうとしたら大変に難しいということが、よくある。個人と違って、組織を動かすということは、ままならない他人を動かすということだから。

広義のコンサルタントは、こういうことを忘れてはいけないと思う。

「こうすればいい」が実現できない組織は、あまり優秀ではないのかもしれない。ただし、組織の優秀さと、その構成員の優秀さが別だということは、忘れてはいけない。

この点を忘れた外野からの批評は、ビジネスの実践と無関係な言葉遊びだ。批評が実践にとって有意義であるためには、ビジネス批評の言語も、そういうところまで踏み込まなければならない。

組織の優秀さは、組織の規模に関わらない。組織の優秀さと、個人の優秀さも別だ。大きくて無能な組織のなかに、優秀な個人が数多くいることも、珍しくない。

小さくて優秀な組織を、一握りの優秀な個人が率いていることもある。例えばワンマン経営のベンチャー。

まあ、こんなことを、ふと思ったのだけれど。

ビジネス批評の言葉は、案外、発達していない。多くの人にとって、あまりにも身近すぎて、うまく語れないのかもしれない。

経済記者の文章は創造的ではないし、経営学者の事例語りはつまらないケース・スタディだし、コンサルタントの書く本は実務的すぎる。どれも文学や芸術を語るような批評の言葉とは大違いだ。

ぼくはビジネス、というか「事業」も、文学や芸術と同じような意味で「批評」できると思っているのだけれど。

例えば、ビジネス批評もどきの文章としては、注目の事業を取り上げて解説しつつ、その将来の展開を予測するようなものがある。こういった記事は、タイミングが良ければ、その題材の選択だけで読者を獲得しやすいので、よく書かれる。

そういう文章が、将来を予測するのではなく、「将来こうしていくべきだ、なぜならば、こうだからだ」ということを、公共的・普遍的な価値へ至る道筋として示すような文章を書けば、立派な「批評」になると思う。しかし、そういったものを目にした覚えは無い。

なお、この際に重要なのが、前述の点だ。つまり、外野にとって「こうすればいいのに」と思いつくようなことを単に述べただけの文章に、批評的価値はない。批評的価値を持つ言葉は、それを読んだ「中の人」の心を動かし、実際に将来に影響を与える。

ビジネスの世界にも、『動物化するポストモダン』のような、それ(ビジネス)を批評の対象として再発見するようなエポックな批評が、必要かもしれない。

動物化するポストモダン』は、アニメをはじめとするオタク系コンテンツの批評にとってエポックな作品とされている。

ビジネス批評にも、そういうものが必要だと思う。

この問題は、ひょっとすると、経済学者の語る言葉が実用的すぎて「批評」たりえない、ということと、同根なのかもしれない。金が絡むと金の話しかできなくなるのかもしれない。

金や規模の話から離れて、事業活動の公共的・普遍的な価値を見定めるような文章、読者が新しい物の見方を手に入れるような文章を、もっと読みたいし、自分でも書いていきたい。