石橋秀仁(zerobase)書き散らす

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カフェ利用のルールづくりと自治と民度(2)政治思想と政府と公共空間

カフェ利用のルールづくりと自治と民度』への追記。

政治思想

ぼくは公共空間をできるだけ狭く捉えたいほうなんですね。いわゆるリバタリアニズム的な思想ですね。

一方で、公共空間をできるだけ広く捉えたい人もいるでしょう。「カフェも公共空間だ」というタイプ。そういう普遍的な正義を求めるリベラルな姿勢もありえますよね。

これって、けっこう大きな政府」「小さな政府」の対立軸と似てます。

まあ、ぼくは面倒くさいことを最小化したいということです。

政府と公共空間

ちなみに、「公共空間をできるだけ狭く捉える」というリバタリアンな思想が、むしろ「大きな政府」を必要とするパラドックスもあるから難しいんだけど。

要するに「民間事業者が運営する私的な空間に、普遍的公共性などのルールを持ち込むべきではない」という態度は、社会の公共空間を減らすことになるので、必要な公共空間の担保が政府の仕事になる

簡単に言うと、すべての書店が「立ち読み禁止」になったら、いまより多くの図書館が必要になるだろう。

これが、「公共空間をできるだけ狭く捉える」というリバタリアンな思想が、むしろ「大きな政府」を必要とするパラドックスです。

といっても、これはあまりにも非現実的な喩えであって、すべての書店が「立ち読み禁止」にすることなど、ありえない。自由な市場競争が多様性を担保する。簡単に言うと、「立ち読み禁止」の書店が増えれば「立ち読みOK」の書店に客が集まるから、事業者は利益を追求するために「立ち読みOK」にする、といった話。難しく言えば、ゲーム理論とかミクロ経済学とか使って説明する話。

ひょっとしたら現実的な喩えなど存在しない、イコール、「公共空間をできるだけ狭く捉える」というリバタリアンな思想が、むしろ「大きな政府」を必要とするパラドックスは理論上の仮構に過ぎず、現実には存在しえない、ということになるのかもしれないですね。これはかなり抽象的で理論的なことなので、よくわからんですけど、そういう直感があります。

新しい公共

この議論の延長には、「政府に頼りすぎずに民間で公共性を担っていこう」という「新しい公共」の思想とか、具体的にはNPOの役割をどう考えるかという問題が出てきますね。

リバタリアン的に言うと、政府が税金を使う公共事業よりも、民間の寄付とボランティアで回ってるNPOのほうが、同じ公共性の担い方としても「問題が少ない」ということになりますね。

一方では、NPOも民間事業者なんだから、やはり「すべての民間事業者が採用する私的ルールからこぼれ落ちる人のための公共サービス」を政府が担う必要はあるわけで、なかなかに問題は複雑です。

さらに、日本では多くのNPOが「行政の下請け」と化している実態もあるようで、ますます複雑です。

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