石橋秀仁(zerobase)書き散らす

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脱「教育批判」

iPad授業に「会社みたいな学校」と順応する中学生』を読んだ。BYOD のための利用ルールが不自由だなあ。 MDM(モバイルデバイス管理)の問題というより「学校内の生徒の管理」についての問題だし、パターナリズムについての問題でもある。

大人の自由を制約することについてリバタリアニズム的に批判するのは簡単だし妥当な場合もあるけど、未成年の教育とパターナリズムについての問題は本質的な難題だよね。そもそも教育がパターナリズムだから。

教育において「生徒の自由を全面的に、大人なみに認める」なんてことには意味がない。それなら、そもそも「教育」をやめて、オンデマンドの「学習」プラットフォームとして学校をリデザインするのが合理的。Wired でそんな特集を組んでましたな。>教育から学びへ。迷子にならないために──『WIRED』VOL. 5発売に寄せて « WIRED.jp

でも日本社会(「近代社会」と言うべきかもしれない)は「教育」を手放せない。教育なしに〈近代的主体〉を作れるとか、〈近代的主体〉なしに社会秩序を保てるとか、そんな言葉を現実的に受け取る人は少ない。

情報社会・創造社会の時代に「教育を廃止してオンデマンドの学習プラットフォームを無料提供する」という政策は一見魅力的だが、その帰結は「学が無く貧しい親の子もまた学を求めずに貧しくなる」という「貧困の再生産」だろう。

義務教育は親へのパターナリズムでもある。それは情報社会・創造社会の時代に、子供に機会の平等を保障するために、必要だと思う。人間の安全保障、ケイパビリティ開発という観点でも。

「教育」による「学校化」「思考停止化」を批判して生徒の「主体的な学び」を起動する実践は、教育制度の中で実践されてこそ意味がある。逆説的。

学級崩壊に象徴されるようなポストモダン状況のなかで、新たな教育・主体化の手段を模索するのか、近代的主体と国民国家とイデオロギーというセットとは異なる社会秩序の原理を模索するのか、未だに答えらしきものすら見たことがない。

ほんとにポストモダンなのか、という問いもまた、単なる言葉の定義問題はさておき、重要だけど。

ワークショップの公開研究会 Ba Design Lab 「苅宿俊文のつくり方」に参加して学んだことについて言えば、教育から学習へという転回も、完全に近代主義の内部の話で驚いた。そののちに納得した。>ワークショップの公開研究会 Ba Design Lab 「苅宿俊文のつくり方」に参加して学んだこと

「ラストモダンの情報化」と「ポストモダンの情報社会」は違うのだということかもしれない。

自転車の乗り方を学校で教えないんだから、Excel の使い方を教えなくてもいいのかもしれない。学校の外で学べばいい。これは新しい教育の考え方だよな。規律訓練や労働力生産の観点からは、学校で仕事道具の使い方をこそ教えるべきだと言える。難題。教育観のせめぎ合い。

……って、元「原理主義的リバタリアン」は、思ったよ。